バットと飛ぶ先生

巨大健造 

 勤続二十年を超えるであろう先生の強大な鋏手が落第生の不出来な頭を掴んでもろとも元の闇へと消えていったとき、わたしたちはようやく思い出したのだ。というか、忘ようとしていたことを思い出す、忘れていたということにしてそむけつづけた目を否応なく目下に迫った期日に向けさせる。
 期末テストが近いのだ。


 鐘が鳴って新任の先生が気さくなあいさつを寄越すその前には終わっている。――こんな小型のばかりでは仕方ない。と彼女は言った、わたしは先生の薄い頭殻にめりこんだままのバットを引き抜き、つづけざまに三度、床を踏みしめるつま先から腰を経て肩腕を伝う力そのままに振り下ろしやつの息の根を完全に(その寸前、先生は言う。――おとずれましたか? その視線は級長を射抜いていた)止めた。やわらかい肉をかきわけ手をのばす。生温かい体液にまみれた先生のかばんを探り当てるとすぐさま、――改めろ。と彼女は椅子の上から命じた。得られたのは、二個の単位と、自然対数表の破れた一ページだけだった。――持ってた? とわたし。数字の並ぶものは彼女の領分だ。――言わんこっちゃない。彼女は応えるかわりにばかでかいため息をついて黒板(「 499e9f73ce4d9f1412fad44290edbb70 組参上!」という落書き、あるいは「北六捻転地殻麓にて乾麺販売中」、他には「本校舎三階トイレに近寄ったら殺す」、等々が煤けた筆跡で大書されていた(彼女いわくわたしたちにも解る言語で書かれているのはごく少ないのだそうだ)、それがいつ残されたものか、書いたクラスあるいは班はまだ在学しているかはわからない)に低い椅子ごしに凭れかかり、溶けるくらいに脱力した。それは背中で文字を拭い去ろうとしているようにもみえた。
――やさしい先生をたくさん狩るって戦略なんじゃなかった。
――もうじきテスト期間だ、単位は?
 彼女に請われてわたしは雑嚢の中身を空き教室の床にぶちまけた。今学期の戦利品は次のようだった。先生のめがね(これで彼女は焼灼具を作ろうとがんばっていた)、先生の肩甲骨を割った板(今これを書くことになる)、先生の火嚢からこそげ取った炭粉(水があればいろんなものを書けるし火種にもよい)、先生の干し頬肉(塩が足りないので海を目指すことにもなる)、先生の胆汁(どう使うかは彼女が知っている)、先生の歯舌(釣り針はあるとべんりだ)、ダブった教科書の断片一巻き。最後のアイテムに先程の表をまとめる。そして単位。二人で分けてしまわなくともてんで足りていない。取得単位数が満たない生徒に、先生はどんなに若くても危険だ。わたしは青い眼玉のように透き通る小さなボールを隠しポケットにしまい直した。
――たしかに、これはしょっぱいね。とわたし。
――全部売っても大した単位にはならない、いやあ、すっかり忘れてた。と級長。――で、どうすんの?
――なあ。彼女はクラスメイトを名前で呼んだ。――なあ野球部、おれはな、教頭を仕留めようと思う。
――へえ、それはビッグゲーム。わたしは口笛をひとつ吹いた。ついでに素振りしたバットがぶうんと空を切って鳴く。
――ほんとにわかってるのか。
 やはり、口笛だけで応える。カモン。


 わたしたちは荷物をまとめて、長年居着いた校舎を離れることになった。
 かつて二度の転校を経験したことがある。一度めは、だいぶ言葉もしっかりしてきたので、先輩のもとを離れたとき。二度めは今のクラスが級長とわたしを除いてみな落第したとき。あれから何学期が経つのか、数えることはもっぱら彼女の仕事だった。
 遠くに模型のような校舎の倒れて積み重なる山々の背後から、小さな月々の残りをかき消して曙光が飛び立ち、学校の輪郭をぎらつく縁取りへと変換していった。わたしはざらつく校庭を、意識が白くなるほど歩き進む、荷を牽く肩がそろそろ重くなっている。荷物の大半は先生の下半身の上だ。先生の駆動部は細い骨格が絡まりあった構造で、皮を剥いでも肉を濯いでも牽く力をそのまま無数の脚に伝えてなめらかに回転する。肩に紐が食い込むのはほとんど彼女の持ち物のせいであって、しかもその当人は先生の下半身に教科書を積み上げてつくった寝台で寝入り端の夢を見る、そういう気配がある。


 これまでの問題はかんたんなものだった。それに壊れやすい。わたしはこのバットでどんな難問奇問も粉砕してきたのだ。そのためにとても大切なことをあなたにも教えてあげよう。1. 勝負はあいさつの前に決まっていること。2. わきをしめて腰を低くすること。3. ことに至ったら何も考えないこと。これはわたしがはじめて独力で仕留めた先生のドロップした本、『プロを目指す! だれでもかんたん7日間でホームランを飛ばす方法』全三十一巻第一巻の読み込みすぎてボロボロに黄ばんだ三十五ページにある記述である。わたしは少なくともその箇所にある文字はすべて読むことができた。これはわたしの誇りに思っていた。
 わたしはおおむねこのとおりにすることで、進級してからの数十学期を生きのびた。

 夕が近づき、視界の端から端を、巨大なボールが伸びゆくホームランのようにすっ飛んでいった。いつごろ起きたのか、背後の級長は、このクラスに残ったもうひとりである彼女は言った。
――そうやって何も考えずにバットを振るだけでいいのか、なあ考えたことはないか、ここはどこなのか(――学校、どこまで歩いても果はなくまた聞いたこともないときおり何か忘れ形見のような校舎がぽつねんと立ちすくみコントラストの鋭い暗がりからは不出来な頭をつけ狙う先生がたのひそめた脚音が泡立っている)、なぜこのクラスでおれたちだけが残ったのか(――余計なことで頭をいっぱいにしたからだ、素振りが足りていなかったからだ、とわたしは思う)、おまえはここでいったい何がしたいのか(――…………)、見ろ野球部、教頭は今日もああして高空を駆け抜ける、ときおりごく低空を飛んでテスト期の到来した生徒を攫う、捕まってもいいとさえ思っているんだおれは、見上げる空はつねに開かれているだろう、われわれを引きとどめる力に抗って卒業するためになら、おれはどんな犠牲をも払うつもりであったと、そういう欺瞞さえ飛び越えてしまいたいんだ、なあ。
 彼女は、最低限の単位しか集めようとせず、もっぱら教科書や参考書技術書あるいは捕えた先生の口を任意の手段で割って口伝を引き出した。
 ことわりもなく、足りなかった燃料のかわりに彼女の本を火にくべたことがある。それを発見した彼女は声もなく泣いた。後にも先にも彼女の涙をみたのはそのときだけだった。わたしはあやまるかわりに、――何も考えていなかった。とだけ言った。彼女はむせび声を漏らしはじめた。しゃくりあげる音の隙間から彼女は言った。
――知ってる。


 夜、学年主任級からもぎ取ったカーボンの肋骨でおこした熾火も音もなく消えかけるころ、彼女が本を閉じる乾いた音を聴き、いつからそれはあるのか、わたしが入学するはるか以前から響いていたのだろう遠い地鳴りのような音を聴いていた。青い月の光が瞼を赤く透かして突き刺さった。わたしは久しぶりに眠れない。
――何を。わたしは匍匐でにじり寄った。
――『星界の報告』。彼女は紙面を瀕死の火に向けて中身を指し示す。これは月であると彼女。月は水晶に覆われてはいなかった、月は完璧ではなくあばた面であった、月にも山や谷が海があった、と続く。新しい眼がその発見を可能にした、眼のぶんだけ世界が拡張されたのだ、とも。わたしにはよくわからなかった。上半身を起こして夜天に瞬くものをそれぞれの指で射抜く、――どれのこと? 五つの淡く青い光〈ペイルブルードット〉、そのどれもが挿絵の骸骨のような顔貌には程遠い。級長は口を開きかけ、つぐみ、また開く、――おまえは何もわかっていないんだな、砕かれたのだ、誰かに、あるいは何かに。
――問題が? あるのならこのバットで砕くだけだ。
そして級長は急に早口になる。――おい、ちょっと待て、まってだめだそれは! 殖えるのか? まだ後輩を持つ準備は、資源もないし、時期を考え、あっ、ヘウレーカ! さっきの下ネタだったのか!
――わたしは。わたしは、とわたしは言った。――わたしは、野球をしたい。
――ああそうか、そうだったな……まあ、いつかは、憶えとくよ、あっそうだ、保健体育の教科書が、大事なとこだけ抜けてるのがあったはずだ読んでやろう……。
――落第。とわたし。――わきをしめて、何も考えてはいけない。
 わたしは腰を低くする。彼女はようやく素直になる。――はい、先生。


 昼、あれがそうだと級長が示す。
 地平線の三分の一ほどを、広い広いプールは占めて、ときおり波のない水面を突き破って先生が空中に躍り出る。翅をさざめかせて会話するように飛び交う先生たちの一群のさなかに、ひときわ大きな個体がゆっくりと空を這い進んでいる。
 教頭だ。
 二回目の転校のときと同じように、わたしは歩けない彼女を寝台から降ろし、おぶってプールサイドにたどり着く。教頭は重々しく着水すると、片足を水中に遊ばせて、岸から半歩のところを漂っている。丸々と肥った水浮きの、喫水線に沿った苔が重なる年輪のようだった。教頭と話してみたいと強硬に主張する彼女を、わたしは止められなかったのだ。級長は肩をたたいて合図を寄越し、決めておいたとおりに彼女をプールサイドに置いてその場を離れる。
 不安をバットで打ち消すように素振りする。空を切る音があの二人にも聞こえるとよかった。彼女がお辞儀をして、何ごとか声をかけた。教頭の全天眼球がいちどきに開き、ボールのような腹の奥底からどよもす重音があり、それでも級長はまだサインを出そうとしない。――いたりましたか。という声の断片が、どちらのものだろうか、風に絡んで運ばれた。教頭は顔をしかめて、眉間から鉄の棘をつきつきと伸ばしはしたものの、しばらく平穏が続く。彼女はたぶん笑顔を浮かべ、しきりに頷き、追従するようだった。わたしは嫌な気分になりかけたので、またバットを振った。一瞬だけ、彼女の視線がわたしを止める。急に息がしぼんでしまい、わたしはその場にへたり込む。まだサインはない。教頭が棘を頭蓋にしまうと、どこからともなく二体目の教頭が級長を挟むように降り立った。間をおかず、最初の教頭が腹を割って、中からはじっとりと濡れたような質感の生徒が、少なくとも生徒に見える生白い人物が現れた。級長は拍手喝采で応じる。結局サインはないまま、一体目がそうしたように腹を真一文字に割って反転した二体目に、彼女はまるごと飲まれてしまう。
 わたしが駆け出すのと同時に、笑い声が聞こえてくる。それは腹からどよもす例の音だ。――ハ・ハ・ハ・ハ・ハ。
 笑い声とともに彼女を飲んだ教頭が低空で行く手を阻むので、わたしはわきを締め、腰を落としてバットを振りかぶる。
――待て、おれだよ。と彼女の声は確かに教頭から聞こえてくる。
――やっぱり、あなたは先生になりたかったんだね。わたしはバットを下ろし、つま先で蹴っている。――わかってはいたけど。
――野球部なあ、これすごい、やっとわかったんだ、空を飛ぶために必要だったのは、腹の肉をぶるぶる揺らして笑うことだったんだよ、わかった、完全にわかってきた、これが眼か! ああ? 盤古? 全天視野の中央で光るのは? おお、これは校長陛下The principal、いつもありがとうございます、ええ、わかりました、わかっています、よーし、おい野球部員、脳を差し出せ、今すぐに。
 バットを構えなおすひまがあったとして、元級長の、本人のものではない強大な鋏手を防ぎ切ることができたものか、定かではない。しかし、剛速の球が風を巻き込んで頬をかすめる。板金を叩くような音がして、教頭2はおそらく飛行器を痛めたのだろう、校庭をいくらか削って止まる。わたしは振り向いた。バットやボール、そしてミットを装備した三人組だった。――覚えているかどうか知らないが、級長はぼくらの級長でもあった。と一人目が言う。――伝言、黒板。と二人目が言う。――ようこそ、野球部員くん、われわれは野球部だ。と三人そろって唱和した。
――取引したのか。とわたし。
――保険としてね、アレからいくつか単位ボールをわけてもらうだけでいい。ファーストと名乗った彼は、契約の締めにかかる。
――わかった。
 わたしは元級長の遺骸を漁り、数々の有用品と、向こう三学期は安泰という量の単位球と、さらに一冊の教科書を発見した。ファーストは最初の練習のとき、それを読んでくれた。彼いわく、詩とは野球のことだった。――ありすとてれす、しがく。わたしは試合のスコアをつけることになった。字を自由に書けるまでに、野球部(わたしでない)は十人を超え、二十人を超えた。アリストテレスという生徒だか先生の言うとおり、わたしはこうしてゲームのスコアを書くことで、悲しみを浄化しようとした。彼は大敗に終わったゲームのほうが、英雄的で素晴らしいのだと言った。でも、と思う。これは喜劇なんじゃないかと、わたしは読み返すたび、少し笑ってしまうから。