窓の時代

巨大健造 

 たまには会社に行ってみる 会社に行くと気持ちがよくなることもあるからだ 久しぶりの職場にデスク三つぶんを占拠するのはやはりマヌ岡氏だ その手足のない頭だけの肉体はわたしの机からでもわかる湿っぽい熱気を発している マヌ岡氏は宣言した 「これから窓の時代がやってくるよ」 巨体に見合わないその小声は冬の終わり花の匂いが混ざりつつあって宵に鼻腔を撫でる風にも似て、彼人の発話を記憶に留めることは難しかった それでも憶えていた このようにして 問を返したこともまた、憶えている では今は何という時代なのか? 「万民の万民に対する闘争の時代」と氏 窓は取決めだ 窓は限られた面を開き、局された光線や音、物の交通を許すものなのだという これ以外の会話を忘れ去り、川に帰って眠る
 川は街を東西に区切って谷間を南に流れ、台地から吹き寄せる風が河岸の何かイネ科を揺らす タタタタと保護色のバッタが跳び上がったそばから速すぎて影しか残らない鳥が獲物を林へ連れ去っていく 川の曲がるたび内側に膨らんだ水田との空白にはベンチが置かれていても、わたしが使うことはない わたしの母は川生まれだ わたしの父も川生まれだ したがってわたしも川で生まれ育つ 湾まではあと三十キロという下流域にまで流れついてからというもの、生態系の王を目指して魚を食べる たくさんの魚を食べる コイを食べる ギンブナを食べる メダカもカダヤシも、バスもギルだって食べる わたしの内臓は寄生虫でいっぱいだ 食べると殻持ちが殖える 殻持ちは藻を食べる いずれ期を見計い、節足どもを胃袋へ収めるつもりだ 川の生物を絶滅させるその日が待ち遠しい たまに陸に上って服を着て、松屋に行く 味噌汁が無料だからだ 会社に行くのは褒められるからだ わたしの事務処理能力はそこそこ高い 故郷の流れには教育熱心な父が敷いた無線LANがトンボと同じ宙を飛んでいた 父は情報流もまた川の一種だと言った 遠戚のうちには、水から情報へとその身を浸す流れを換えた人もあるらしい
 丸々と孕んだコイの腹をほおばりながら、ペリ平氏に昨日のことを話してみる 氏は髭を指で漉き込みながら「巨頭者の言うことをなんでも託宣であると思うのは誤りです」という 「あんまり人の話を聞いてはいけない あなたは王となるのでしょう」
 ペリ平氏はわたしのファンである と本人は言う そのへんに生えたツユクサやタマスダレなどわたし好みの花を、あるいはセージやローズマリーなどの香草を摘んできてくれる 氏は昔、ベルリンの大学で言葉を悪用する研究をしていたそうだ それがどうしてこの橋のたもとに棲まうのか訊いてみたことがある 「あるものが流れ着くのを待っています」 わたしは護岸から腕を伸ばして氏の藻の色に染まった服を受け取る 藻のない川の水で洗う 彼人は決して川には入らない 入れば最後なのだと知っている まだ人を食べたことはないが、ネコならある あれは思い出すだけでも涎が甘くなるごちそうだった イヌは助けることにしている 飼い主からのお礼がなかなかいい稼ぎになるからだ というのは建前で、実際のところ動物としての彼らに敵う気がしない 今のところは
 わたしは背中を流れに浸し、顔と腹を星々に晒しながら夢を見る 陸地がなくなった夢の中で、水中の駄菓子屋を営んでいる 小さかった頃、故郷の小学生に混ざってよく遊びに行った どこの川底にも小銭が光って、わたしでも買い物を楽しめる場所が好きだった イヌがカルパスを所望する わたしは濡れた十円玉を数枚舌から受け取り、濡れた釣り銭を返す 飼い主の首が軒にそよぐ 小魚の群れがふやけた眼玉をついばんだ その小魚をわたしは捕らえて口に放る レジに戻り次の客を待つ お菓子は包装が抱える泡で浮いてしまうので、重しになった板の裏から商品を眺めなければならない ボンベを担いだ小さな人が放課後群れをなして泳ぎ来る 泡の合間でわたしは食欲と戦っている これが窓の時代なのだろうか あるいは、最後に来るのが川の時代だといい
「それは違う」 マヌ岡は言う ご覧 今日この日から窓の時代なんだ 画面の中で窓は開くそばから死滅していった 今日はもう仕事になりそうにない 「いいよ、もう上がって」 わたしが上がるのは川からだ、とは言わない 外はすでにこの星の影に入っていた まだ街灯の点く前の暗い橋、川には水以外のものが流れていた わたしはアルミの欄干から身を乗り出している 隣とその隣、のまた隣でも大小様々の人が同じように橋からはみ出して、そのまま前転するように飛び込んでいった 落ちる直前、優しい瞳の人がわたしの顔を覗き込んでこう言った 「窓の時代の次には旅の時代が、旅の時代の次には恋の時代が、そして最後には何が来たるのか、私たちにはいまだ秘されている」 夥しい数の濡れた頭が川面を出たり入ったり、誰も何も言わずに下流へ下流へと自らが作り出す流れによって運ばれていく 頭が沸騰しそうだった わたしはペリ平の名を呼んだ そっとわたしの肩に手を置いた氏は舌と右腕を失っていた ざざ という動きのそろう音がした 眼下には人々の頭頭頭がいっせいに空を見上げるところ 彼らの見詰める先には何もない 何もない宙を、星にすら焦点の合わない無数の瞳が覗き込んでいる その間にも流れは強く大きくなっていった どうかすると、番っていたのか人の数まで増えているようだった ペリ平氏は残った手で目元を拭うと、イネ科の草臥れた土手を静かに降りてゆき、すぐにその体は他の誰とも見分けがつかなくなる 黒い大きなイヌが飼い主を呼んで鳴いた それからの二千年間は夜が続く わたしは悲しい。